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感覚のリセット― [1]
このところ、子どもとの付き合いの中から、自分が考えたことを
エッセイとして書く機会が増えています。
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まずここでご紹介したいのは、『感覚のリセット』というシリーズエッセイ。
紀伊國屋書店がこの秋に刊行した、季刊のフリーマガジン「スクリプタ」に連載し始めました。

リセット、という言葉は、テレビゲームの影響でややマイナスなイメージがありますが、
ここでは、自分の感覚や知識を見直し、原点から考える、といった意味を込めて使っています。

その第一回、『この先 240m ahead』 をお楽しみください。



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感覚のリセット― [1]

この先240m ahead

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 東京の地下鉄構内を歩いていて、いつも気になる表示がある。「この先240m ahead」。これは、別な路線のホームまであと何メートル歩けばよいかを示すサインなのだが、日本人向けの「この先 240m」と外国人向けの「240m ahead」が微妙に合成されているのだ。2つを並べて書くより、共通する「240m」を一つにしたことで、確かにスペースは少なくて済むし、視認性も上がっている気がする。なかなかうまいアイデアだな、とは思うのだが、しかしその表示を見るたびに、なにかスッキリしない、もやもやとした気分になるのだ。日本語か英語、どちらか一方しか理解できなければ意識しないで済むのだろうが、2つの言語が自分の頭の中で押し合いへし合い、どちらも負けず譲らず気持ち悪いのである。
 以前、ソウルに旅行したとき、街並みは日本にすごく似ているのに、店の看板や、広告のポスターに書かれた文字がすべてハングル文字で、まったく読めないことにとても緊張した覚えがある。欧米の街であれば、街自体が日本とずいぶん違っていても、あちこちにアルファベットがちりばめられた風景にどこか安心しているのではないか。ハングル文字の看板や、アラビア語の新聞を見たときのように、一見見た目が似ていてもまったく文字認識できない世界のほうが、自分が異世界に足を踏み入れたような「エイリアン感覚」に襲われる。たぶん和食屋の墨で書かれたメニューなど、日本語のまったくわからない外国人には、相当不思議なものに見えているのだろう。
 同様に、文字の読めない子供が、どう世界を認識しているのか、最近とても興味がある。僕の娘がろくに言葉もしゃべれないほど小さかった頃、電車の中でベビーカーに乗りながら、どこかを指差して「ミッキー!、ミッキー!」と叫び始めたことがあった。どこにもミッキーマウスらしきものが見当たらなかったが、よくよく探したら、遠くの車内吊り広告の片隅に本当に小さなミッキーのマークが印刷されていたので驚いた。その時は、こんな小さな子供にも認識されるミッキーマウス恐るべし、と思ったのだが、今から考えると、文字も読めない、週刊誌や広告にはまったく興味のない彼女にとって、唯一認識でき、興味を持てた図形がミッキーだったわけだ。我々にだって異国の街では、マクドナルドの看板は何よりもくっきりと浮かび上がって眼に飛び込んでくるだろう。
 その娘には、あえてしばらく文字を教えなかった。同年齢の友人の子供の中には、ずいぶん早くから読み書きができる子がいて、親としてはちょっとあせる気持ちを感じたこともあったのだけれど、せっかくのイメージだけの自由な世界が、文字を知ってしまうことで急に狭められるような気がしたからだった。「あか」といっても実際には微妙な赤色が無限に存在するのに、言葉や文字を知ることによって、すべて赤っぽい色が「あか」という言葉で片付けられてしまう。これからの長い人生の中で、唯一そうした言葉や文字にしばられない、このほんの一瞬の短い期間を大事にすべきでは、と思ったのだ。
 大人になって、異国の街で読めない文字に出会って不安になるのは、すでに文字を読める自分を知っているからだと思う。文字の存在さえも知らない子供たちなら、新しい世界を純粋なイメージとして捉えることができるだろう。これは大人になってからでは、絶対に取り戻せない感覚の一つなのではないだろうか。そう考えると、小さな子供たちはなんと貴重な体験をしていることか、と思う。
 その僕の娘も、幼稚園に入った2年ほど前から周囲の子供たちの影響で、字の読み書きに興味を持ち、小学校一年生になった今では、ひらがな・カタカナがほぼスラスラ読めるようになった(書くのはまだ少しおぼつかないけれど)。でもまだ漢字は読めないから、街のあちこちに書かれている文字を、漢字をすっとばしてひらがなだけ声に出して読み上げる。「お願い」という張り紙を「おい」と読んだりしてクスッと笑わせる。
 面白いので、先日、娘と一緒に散歩をしながら、看板などのひらがなを見つける言葉遊びをやってみた。例えば、学校脇の通学路に立てられた「学校あり」と書かれた標識を指差し、「あっ、ありがいるよ!あそこにいるのは、どんなあり?」とクイズを出す。「あり」の文字を見て、娘の顔がパッと笑顔になる。「ええーっと」「答えは、がっこうあり!」という具合。
 もっと他にないかとキョロキョロしながら歩いていくと、「やせるごみ、やせないごみ」という文字が目に飛び込んできた。ハッとしてよく見ると、ごみ収集日を書いた看板の「燃やせるごみ、燃やせないごみ」の文字だった。娘と一緒に大笑い。僕にも娘の目線が乗り移って、ひらがなだけが見える世界に入り込んでいたのだった。
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by iwaisanchi | 2006-11-26 22:25 | ◆岩井パパのエッセイ
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