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カテゴリ:◆岩井パパのエッセイ( 13 )
感覚のリセット―[10] アナログとデジタルの間に架ける橋
紀伊國屋書店のフリーマガジン「スクリプタ」10号に書いたエッセイをご紹介します。

このエッセイの〆切が、特別授業をやったあとだったこともあって、
授業のことを書こうかとも考えたのですが、とてもこの字数にはまとまらず、
思い直して、その特別授業をやりたいと思い至った大もとの気持ちを探ることにしました。

実は、この連載エッセイ「感覚のリセット」も今回が最終回。
それもあって、「アナログとデジタルをどうつなぐか」という、
自分にとっての大きなテーマをまとめとして選んだ、というのもあります。

読んでみてください。
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感覚のリセット― [10]

アナログとデジタルの間に架ける橋

岩井俊雄

f0118538_18284978.jpg 2歳になった次女、ゆゆちゃんが虫に夢中だ。家を建てて4年が経ち、庭に草花が増えてきたせいか、バッタ、カマキリ、コオロギ、カマドウマなど様々な虫が棲みつくようになった。ゆゆちゃんはそうした虫を見つけるたびに、捕まえて欲しいと大興奮で僕を呼びにくる。触りたいのだ。体長10センチほどもあるカマキリでさえ恐がらずに大喜びである。そして、ジーッと見つめて飽きることがない。虫の形や色の複雑さ、動きや反応、そのすべてが魅力的なのだろう。虫を見る彼女の集中力を見て、2歳の子どもの心をこんなに捉える自然の力はすごいな、とあらためて思う。CGやロボットが今よりもっと高度になったとして、小さな虫一匹が持つ複雑さに到達できるのは、いつのことだろう。
 8歳になる長女ロカちゃんとは、彼女が2歳ごろからずっと手作りおもちゃで遊んできた。それを本にまとめて発表した時、ハイテクやデジタルを得意とする岩井さんが、なぜこんなローテクな遊びを? と驚かれた。しかし、僕にすればメディアアーティストとして、散々ハイテクやデジタルを使ってきたからこそ、小さな娘には最初からそれを渡したくない、という思いが強くあった。そして何年も経った今も、ゲームやPCやケータイに強い関心を持ち始めた彼女に、いつそれらを渡すか決めかねている自分がいる。僕自身、デジタルの便利さ・面白さはよく知っているし、ニンテンドーDSのソフトまで作っていながら、この不安な気持ちはなんだろう?
 アナログなものとデジタルなもの、それぞれに得意な部分と不得意な部分がある。例えば紙ならば、折ったり曲げたり、切ったりくっつけたり、絵を描いたり色を塗ったり、平面的なものから立体まで、子どもは自分の年齢やスキルに合わせて自由に形を作ることができる。小さな子でも、紙という素材の持つ特性はすぐにわかるし、自分なりの工夫ができる。最初はハサミを使うのが危なっかしくても、工作を繰り返すうちに、子どもは徐々に自分で技術を習得していく。そこに親としての不安はない。一方、デジタルなツールを使って何かを作る時は、紙と向かい合う時のようなシンプルさや自由度はない。メニューやボタンがまちまちにデザインされたアプリケーションの上で、数多くの機能の中から自分が使いたいものを最初に見つけ出さなければならない。絵を描くのに、色を一瞬で塗ったり、塗り替えたり、複製をいくつも作ったりと、デジタルならではの便利な点はたくさんある。だが、便利さの反面、子どもの成長にとって大切な、心と身体感覚のバランスは取れるのだろうか?そこが親として不安になる部分だと思う。
 デジタル世界ではアプリケーションで決められた枠を子ども自身がはみだせないことも問題だ。自らの手で新しいソフトウェアを作れるのであれば、こんなに面白い道具はないが、8歳の娘にいきなり高度なプログラミングを教えるわけにもいかない。結局我々はブラックボックスの表面をさわっているだけで中身は理解できないまま。だから素人はバグやウイルスに悩まされ、玄人は裏技やハッキングにのめりこむ。それが現代のデジタルやハイテクの実体なのだ。
 それでも子どもたちが、デジタルやハイテクに強く魅かれるのはなぜか? それは、アナログやローテクでは表現できない魅力があるからだ。例えば、自在な動きや音、予想できないような変化や反応といった部分である。ゆゆちゃんが、虫をずっと飽きずに見ていられるのも、動きや反応が複雑だからだが、ローテクでそれらを実現することは難しかった。人工的にこうした要素を作り出すのに、デジタルはとても有効なのだ。子どもたちのまわりから自然が減り、虫がいなくなり、ペットも飼いにくく、兄弟も少ない現代で、自然に変わる楽しさをハイテクやデジタルに求めるのは当然だと思う。目の前で会話できる人が少なくなれば、ネットを使ったコミュニケーションのほうが面白くなる。しかし、デジタルの中に作られた世界は、まだまだ子どもたちにとって現実世界のような豊かさを獲得してはいない。
 デジタルを否定するつもりはない。次々と進化し、我々の可能性を広げてくれる科学技術は面白い。ただ、今の不完全なデジタル世界の見かけのきらびやかさ、面白さに子どもたちが満足し、依存してしまいそうなのが我々アナログ世代の親の心配なのだ。デジタル世界をもっと複雑で立体的で質感が伴ったものにしようと、今世界中で技術者が知恵を絞っている。しかしそれによって、デジタルが僕ら親にとって安心できるものにまで達するのはまだまだずっと先のことだと思う。少なくとも、そうなる前に僕の娘たちはすっかり大人になってしまうだろう。
 僕の育った時代は、アナログな世界に徐々にエレクトロニクスやデジタル機器が登場して、アナログの豊かさもデジタルの便利さも両方味わいながら、世界全体が前進していくのを実感することができた時代だった。デジタル時代に生まれた自分の娘たちにも、同じようにアナログとデジタル、それぞれの良さと欠点を両方わかるようになって欲しいと思う。そのためには、今は分断されている二つの世界の間をつなぐ橋のようなものが必要だ。アナログとデジタルの間に橋を架けるのは難しい。架けられるのかさえまだわからない。しかし、細い吊橋のようなものでもよいから、今のうちに自分の手でそんな橋が作れないか、このところずっと考えているのである。
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初出 scripta no.10 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2009-02-24 14:29 | ◆岩井パパのエッセイ
感覚のリセット―[9] 30年目の絵本
岩井パパです。
おかげさまで僕の絵本『100かいだてのいえ』は、とても好評をいただいていて、
発売直後から何回も増刷を重ね、僕も偕成社の担当さんも驚いています。
買っていただいた方、本当にありがとうございます!
特に宣伝もしていないのに、本屋さんで子どもたちが見つけ、
気に入ってくれるケースが多いと聞いて、それが何よりもうれしいです。
日本全国で、毎晩たくさんの子どもたちが100階まで登ってくれていると思うとドキドキします。

さて、今回は紀伊國屋書店のフリーマガジン「スクリプタ」9号に書いた絵本に関するエッセイをご紹介します。
『100かいだてのいえ』が出版されてしばらく経った8月頃に書いたものです。
以前、加古里子さんや田島征三さんの絵本について、このブログで書きましたが
このエッセイでは、安野光雅さんの絵本との出会いを中心に
自分の過去の絵本体験や、絵本についての想いをつづってみました。
読んでみてください。
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感覚のリセット― [9]

30年目の絵本

岩井俊雄

f0118538_953992.jpg 『100かいだてのいえ』という絵本を描いた。僕にとって初めての本格的な描き下ろし絵本である。それ以前に紀伊國屋書店から『どっちが?絵本』というシリーズを出してはいるが、これは娘と家でやっていた遊びをシンプルな絵本にしたもの。今回の『100かいだてのいえ』は、絵本の老舗出版社である偕成社からお誘いを受けて、まったくのゼロから長い時間をかけて描き上げた。
 絵本をいつか描いてみたい、と思い始めたのは、実はもう30年近くも前のことだ。高校生の頃、安野光雅さんの絵本に出会ったのがそのきっかけだった。それまでの僕は、マンガやアニメなど絵で表現する世界に夢中になってはいたが、絵本のことはまったく視野に入っていなかった。それが安野光雅の絵本に出会って衝撃を受けた。最初に見たのは『旅の絵本』だっただろうか。開いた瞬間、ページの隅々までびっしり描き込まれた緻密な絵に驚いた。さらに一つも文字がなく、読者自身が本当に旅するように自由に絵本の空間を楽しめる趣向に感動を覚えた。エッシャーに影響を受けたという初期の『ふしぎなえ』『さかさま』なども面白かったが、特にアルファベットを木製の不可能立体として描いた『ABCの本』には、こんなに美しい絵本があるなんて、と溜息をついた。美しいだけではなく遊び心に溢れ、随所に数学や科学のエッセンスがふりかけられ、絵本の中に不思議な空間が閉じ込められているようにさえ感じた。マンガやアニメにばかり気をとられていた僕は、気高さと実験精神とが見事に合わさった絵本という表現に不意にガツンとやられた気がした。安野光雅をきっかけに、尊敬と憧れをもって、国内外の絵本を読み漁り始めた。ビアトリクス・ポターや田島征三が僕のお気に入りになった。
 思えば幼い頃の絵本の記憶は強く残っている。4~5歳の時、福音館書店の『こどものとも』を時々買ってもらっていた。『だるまちゃんとかみなりちゃん』(加古里子)、『そらいろのたね』(中川李枝子・大村百合子)、『ごろはちだいみょうじん』(中川正文・梶山俊夫)などは、初めて読んだ当時のワクワクした気持ちが、今でもはっきりと思い出せるほどだ。本というものは面白い!と、生まれて初めて意識したのがこれらの絵本との出会いだった。ビジュアルの世界に触れる楽しさを、テレビよりも、マンガよりも先に教えてくれたのが絵本だった。
 高校で絵本に再度出会って刺激を受けた僕は、大学に入ってアーティストを志すようになった。絵本にはあいかわらず興味はあったが、自分の絵に自信がなく、ストーリーを作るのが苦手だったこともあって、よりアイデアや技術を全面に出せる映像の世界に飛び込んだ。絵本と違って、まだまだ未開拓の分野であったことも面白かった。そして自分なりにメディアアートという新しいジャンルを切り拓こうとした。
 10年ほど前、僕の個展を訪れたある絵本の出版社の方から、もし興味があれば絵本を描いてみませんか、とお誘いを受けたことがある。その人は、メディアアーティストの僕が絵本を描いたら、どんな絵本ができるだろうか、と純粋な興味で誘ってくれたのだった。僕も、かつて自分が憧れていた絵本に誘われたことはとてもうれしかったが、実際には何を描いていいものやらまったくイメージが湧かなかった。自分の仕事がようやく注目を浴びるようになった時期でもあり、メディアアートには明確なビジョンを持てた。しかし、絵本には憧れはあっても、自分がやるべき何かは見えてこなかった。憧れだけでは、絵本は描けないことを思い知った。
 それからさらに長い年月が経ち、2年ほど前、今度は偕成社の方から連絡があって、また絵本を描くチャンスがめぐってきた。10年前の記憶が戻り緊張はしたが、しかし今度は以前とは違う自分も感じていた。僕には娘が生まれ、娘との日々の遊びの中で、自分が子どもにできることを模索していた。同時に、テクノロジーやデジタルの限界も感じ始めていた。こうしたことが、僕に絵本を描く必然を与えてくれそうな気がした。
 しかし、いざ取り掛かってみると、そう簡単なものではなかった。絵本に自分にしかできないことは残っているのか。これまで避けていた、自分の絵のスタイルを作り、物語をつむぐことはできるのか。そうした疑問が一気に押し寄せてきた。悩みながら、迷いながら、ひとつひとつクリアしていく地道な日々が続いた。かつて憧れた先人たちの絵本には遠く及ばないまでも、自分らしいアイデアを詰め込んだ、子どもたちに本当に見せたい絵本を目指した。〆切を何度も延ばしてもらいながら、一年半かけてようやく完成に漕ぎ着けた。絵本が出版され、幸いなことに子どもたちや親からのうれしい感想が次々届き始めて安堵した。絵本というものは、子どもの手に直接届くメディアなんだ、と気がつきあらためて感動した。
 『100かいだてのいえ』を描き終わった頃、娘が通う小学校の先生に、この小学校にかつて安野光雅さんがいたらしい、と聞いた。慌てて調べてみると、安野さんが上京した初期に教員として勤めていたことがわかった。一つ絵本を描き上げたことで、30年の呪縛から徐々に解き放たれた気分になっていた僕は、偶然のめぐり合わせに驚いた。そして、かつて保育園と高校で僕に大きな影響を与えてくれた絵本に、今度は自分がお返しをする番かもしれない、と密かに思い始めている。
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初出 scripta no.9 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2008-11-08 09:20 | ◆岩井パパのエッセイ
クーヨン9月号 『プールで父が教えてくれたこと』
クレヨンハウスから発行されている月刊クーヨン最新号の特集は
「子どもを認めてしかる・ほめる」。

僕は子どもをほめるのは結構うまくやれているのではないか、と思っているのですが
逆にしかるのは苦手で、すごく難しいなあ、といつも思います。
子どもをしかるたびに、自分自身を問われているような気がしてしまうのです。
ほめるだけでなく、子どもたちをうまくしかれる父親でありたいと思うのですが、
毎回試行錯誤の連続です。
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さて、そのクーヨン最新号に『こころに響いた「わたし」の しかられ・ほめられ体験』というテーマで
短い文章を依頼されました。

子どもの頃にしかられた、または、ほめられた体験で、
印象に残っているエピソードをお教えください、ということで
うーんと考えて、思い出したのが、ある夏の日のプールでの出来事です。
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僕以外にも、絵本作家の五味太郎さん、酒井駒子さんなどがご自分の体験を披露されています。

読んでみてください。
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こころに響いた「わたし」の しかられ・ほめられ体験

プールで父が教えてくれたこと

岩井俊雄

 小学校2年か3年の夏、家族でプールに行った時のことです。僕はちょっとした悪ふざけがしたくなって、プールサイドに立っていた父親に後ろからそうっと近づき、えいっと背中を押してプールの中に突き落としました。すると、バシャンと水の中に沈んだ父はしばらくして浮かんできたものの、顔を下に向けたまままったく動きません。僕は青くなりました。まもなく、それは父のとっさの演技だったことがわかり、ほっと胸をなでおろしたのですが、水から上がってきた父にはひどくしかられました。軽い冗談でも、人の生死に関わるかもしれないことを絶対にやってはいけない、と。
 今でも、その時のことは、プールに浮かぶ父の背中のイメージとともに、しっかりと脳裏に焼きついています。ただ言葉で叱るだけでない、父のとっさの行動は、幼かった僕にとても強い印象を残しました。ふざけてやってよいことと悪いことがあるんだぞ、という人としての基本を父流に一つ教えられたのです。
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月刊クーヨン 2008年9月号 (クレヨンハウス)

by iwaisanchi | 2008-08-11 17:09 | ◆岩井パパのエッセイ
優しい光の記憶
幻灯機について以前書いたエッセイがあるので、この機会にご紹介しておきましょう。
紀伊國屋書店がかつて発行していた「ifeel~読書風景」という季刊誌に
僕は<ハッピーテクノロジー生活>というシリーズエッセイを連載していました。
その2回目に書いたのがこの幻灯機に関するエッセイです。
まだロカちゃんが3才の頃です。
読んでみてください。
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ハッピーテクノロジー生活― その2

『優しい光の記憶』

岩井俊雄
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 先日、下北沢のアンティークショップで「ネオンビジョン」という古いオモチャを見つけた。カラフルな箱に印刷された懐かしい雰囲気の写真から、家庭で楽しむ一種の子供向けスライドプロジェクターだとわかり、映像関係のオモチャに目がない僕は、すぐに店の主人に中を見せてくれないか尋ねてみた。ところが、それは1969年発売の未開封のデッドストック品で、一度でも開けてしまうと価値が下がるから見せられないという。見れないとなるとますます欲しくなり、思いきって買ってしまった。
 箱はかなり古ぼけて一部破れていたが、開けてみると中のビニール袋に包まれた「ネオンビジョン」本体は、35年も前のものとは思えないくらいピカピカだった。1962年生まれの僕は、まさしくこのオモチャを買ってもらった側の世代で、自分と同世代のオモチャが時を越えて新品のまま目の前に現れたことにすごく興奮した。説明書を見ると、本体に円盤型のフィルムをはめ込み、ソノシートに録音された物語を聞きながら、ボタンを押してひとコマづつ進めていくという仕組みらしい。箱の中には「三びきの子ぶた」と「ジャックと豆の木」の二つのフィルムとソノシートのほか、親が読み聞かせするための小冊子、さらには当時の白熱電球までそのまま入っていた。見ると電球の形が現在と違ってほんのちょっと細長くいびつで、なんとも懐かしい感じだった。電球とフィルムをセットし、部屋を真っ暗にしてスイッチを入れると、35年前に当時の子供たちが夢中になって見たであろう映像が浮かび上がった。それはなんとも柔らかい光で、久しぶりに見た暖かい感触のする映像だった。その光を見ながら、僕自身のいろいろな光の映像の記憶がよみがえってきた。
 映画館が一つもない田舎町に育った僕は、子供の頃の映画といえば、こども会で夏に上映するゴジラやガメラなどの野外上映会だった。木と木の間に張られた白布のスクリーンは風が吹くたびにゆれて、それに合わせて画面もゆらゆらゆがんでいた。投影された映像が、表からも裏からも見えるのが面白くて、スクリーンの前と後ろを行ったり来たりした。また、藤子不二雄Aの自伝漫画『まんが道』には、手作りの幻燈機を使って主人公の二人が自作の絵物語を競い合って上映する話が描かれているのだが、中学生の頃、それを読んで僕も真似をして同じものを作ったことがある。自作の幻燈機で自分の部屋の壁に、ぼんやりとだが映像が映った時の感激をはっきりと思い出す。どの体験も思い出すたびに、独特のにじんだほわっとしたイメージとともに、なんとも言えないうれしい気持ちがこみ上げてくるのはなぜだろう? 心地良かった夢を思い出す時のような、記憶の中に閉じ込められていた優しい光が、じわじわと頭の中にしみだしてくるような感覚。
 今のディスプレイやプロジェクターは明るい部屋でも見られるようにどんどん明るくなっているが、その分昔のように暗い部屋にぼんやりと浮かび上がるような光の体験ではなくなっている。今よりももっと夜が暗かった時代に、目を凝らして見つめた光。ぬるめのお湯でゆっくりと身体の芯まであたたまるような、そんな光の見方だったからこそ、記憶の中にしっかりと光がしみ込んでいるのではないだろうか。月の光に太陽とは違った神秘性と美しさが宿っているように、昔の幻燈や映画の優しい反射光は、現代の映像機器にはない不思議な魅力を備えていたように思う。
 7年ほど前、作品制作のためにドイツにしばらく滞在していたとき、ハンガリー出身の作家と仲良くなって、彼の家で小さな古い幻燈機を見せてもらったことがある。彼には5歳くらいの娘さんがいて、奥さんと毎晩のようにその幻燈機を使ってお話を聞かせてあげるのだと聞いた。幻燈機の中に35mmのロール式の絵物語のフィルムを入れて、手でくるくる巻き取りながら、美しい手描きの絵の下に書いてある字幕を、絵本や紙芝居のように読み進めていく。夜、部屋を暗くして映像を投影するのは、小さな子供には幻想的なとても素敵な体験なんだ、と彼が言っていたのが印象的だった。その後聞いた話によると、ハンガリーでは「ディアフィルム」といって、その昔、ほとんどの家庭に幻燈機とフィルムのセットがあって、お母さんが子供にお話を聞かせてあげていたという。僕の友人もそういった体験があって、自分の娘に同じことをしてあげていたのだろう。お母さんの語りとともに思い出される優しい光は、何にもまして人々の楽しい記憶となっているに違いない。
 親子の間にゆっくりと流れる時間。優しい光と記憶。そんなことを考えながら、僕は3歳になる自分の娘に、いま「ネオンビジョン」を見せている。
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初出 ifeel~読書風景 No.27 / 2004 冬号 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2008-07-27 02:23 | ◆岩井パパのエッセイ
感覚のリセット―[8] 21世紀はどこに?
紀伊國屋書店のフリーマガジン「スクリプタ」8号に書いたエッセイをご紹介します。
これは、4月にTENORI-ONの世界ツアーから帰ってきた頃に書いたものです。
これまでのエッセイと少し雰囲気を変えてみました。
読んでみてください。
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感覚のリセット― [8]

21世紀はどこに?

岩井俊雄

f0118538_13394936.jpg SF作家のアーサー・C・クラークが亡くなった。彼がスタンリー・キューブリックとともに作った映画『2001年宇宙の旅』を、僕は高校生の時に名古屋の「中日シネラマ劇場」という映画館で見た。緩やかなカーブを描く巨大なスクリーンに投影されるシネラマ方式の映画を体験できたのは、後にも先にもこの時だけだ。その唯一のシネラマ体験が『2001年』だったのは、今から思えばなんと幸福だったことだろう。その徹底した映像美も、難解ながら知的想像力をかき立てられる内容も、すべてがシネラマの大迫力の画面にふさわしく、僕は十二分に「21世紀」を堪能して映画館を出た。
 それからすでに30年が経ち、僕らはとっくの昔に本当の21世紀に来てしまった。ケータイもハイビジョンもわが家にやってきたけれど、でも日常のほとんどは20世紀となんら変わらない。『2001年』に描かれたような21世紀は、どこにあるのだろう? 時々ふとそんなことを考えてしまう。
 未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ――これは「パソコンの父」とも呼ばれるコンピュータ科学者アラン・ケイの言葉だが、僕自身も自分の手で未来を創ってみたくて、ヤマハと一緒に『TENORI-ON』という楽器を開発した。光と音を同時に演奏できる21世紀のデジタル楽器である。楽器といっても、従来の楽器のイメージとはほど遠い。知らない人には、それこそSF映画に出てくる小道具にでも見えるだろう。決してSFを意識してデザインしたわけではないが、もしかしたら僕が学生の頃に映画や小説から吸収していた21世紀のイメージが無意識に現れてしまっているのかもしれない。かつて夢見た21世紀は、自分の頭の中にしかないのだろうか。
 そのTENORI-ONの発売イベントで、2週間世界ツアーに行くことになった。ベルリン・パリ・モントリオール・ニューヨーク・サンフランシスコと地球をぐるりと一周する旅である。これまでも仕事で海外へ出かけることはあったが、家族を置いて丸々2週間というのは初めてだ。いつもは旅先から自宅への連絡はメールや電話ですませていたのだが、今回は期間が長いこともあり、スカイプによるテレビ電話を試してみることにした。
 スカイプとは、インターネット上の無料の電話サービスである。ネットにつながったパソコン同士なら、スカイプで世界のどこからでもタダで電話ができるようになる。高速なネット回線が各家庭に普及すると同時に、インターネットを使ったいわゆる「ネット電話」が話題になって久しいが、その中でもスカイプは世界的に最も成功を収めている。
 2年ほど前、オーストリア滞在中に初めてこのスカイプを試した。ノートPCにマイクをつなぎ、ホテルから東京の家族と会話したのだが、まずその臨場感に驚いた。無指向性のマイクと高音質のスカイプのおかげで、家族それぞれの声のみならず、部屋の物音や外の自然音など全てがリアルに聞こえてきた。受話器ではなくスピーカーで音を聞いているせいもあって、壁を隔てた隣の部屋と会話しているような錯覚に陥った。
 その頃すでに、スカイプでテレビ電話ができるのは知っていたが、その時はあえて音声だけにとどめた。多少僕のアマノジャクな性格もあるが、いきなりテレビ電話ではなく、まずは音声だけのスカイプを体験したかったのである。進化の段階を追わないと、テクノロジーの真価は見えてこない――メディアアーティストとして、常々思っていることである。そしていよいよ今回の旅のために、僕は専用のビデオカメラを買い、スカイプによる海外からのテレビ電話に挑戦することを決意した。
 最初の宿泊先であるベルリンのホテルには夜遅くに着いた。世界時計を調べると、まだ日本は未明である。ひと眠りすることにした。目が覚めて、まず家内の携帯に「スカイプを立ち上げて待っていて」とメールを入れた。さあ、初めてのテレビ電話はうまくつながるだろうか? ドキドキしながら呼び出しボタンを押す。次の瞬間映ったのは、驚いたことに画面をのぞき込む6人もの女の子たちの姿だった。僕のふたりの娘以外に、たまたま近所のお友だちが4人も遊びに来ていたのだ。僕がドイツからテレビ電話をかけてくると聞いて、全員今か今かと待っていてくれたそうである。みんな珍しそうにこちらを見つめている。画像は時々粗くなったり、動きが遅れたりするが、予想以上にきれいである。子どもたちの笑顔や笑い声と一緒に、わが家のリビングを照らす春の日差しが、まだ暗いドイツのホテルの部屋にも差し込んだようで、明るい気持ちになった。
 同時に僕は『2001年宇宙の旅』の一シーンを思い出した。月面基地での異変を調査するために地球から宇宙ステーションに到着した博士が、自宅にテレビ電話をかける。画面に現れたのは、幼い女の子。明日誕生日を迎える娘に、プレゼントは何がいい?と博士は尋ね、女の子は「おさるさん」と答える。全編スタイリッシュで哲学的な雰囲気に包まれたこの映画の中で、唯一と言っていいほど人間味を感じさせる微笑ましい場面。
 スカイプのウインドウに映った、6人の女の子と他愛のないおしゃべりをしながら、僕は自分の中にかつて刷り込まれた21世紀を初めてリアルに感じていた。
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初出 scripta no.8 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2008-07-14 13:35 | ◆岩井パパのエッセイ
感覚のリセット―[7] 葉っぱとコンセント
紀伊國屋書店のフリーマガジン「スクリプタ」の最新号が届きました。
連載中の僕のエッセイでは、このところずっと考えている
人が創造することの原点とはどこにあるのか、をテーマに書いてみました。
奥深いテーマなので、この小文ではまだまだ未消化な感じですが読んでみてください。

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感覚のリセット― [7]

葉っぱとコンセント

岩井俊雄

f0118538_0362761.jpg もうずいぶん前だが、わが家でこんなことがあった。今の家に引っ越す前、まだ豊島区の賃貸マンションに住んでいたときのことである。ある夏の日の午後だったか、部屋の壁をふと見たら、電気のコンセントから葉っぱが2枚、ぶらりと垂れ下がっていた。発見した瞬間は、あたかもコンセントの穴から緑の葉っぱが生えてきたように見え、その違和感にドキリとした。そしてすぐに――ロカちゃんの仕業だ!と気がついた。
 当時、ロカちゃんは2歳くらいだっただろうか。ママが、イタリア料理の香り付けに使うバジルを、ベランダに置いたプランターで育てていて、パスタや魚介のマリネを作る時によく「お料理に使うからバジルの葉っぱ取ってきてー」と、まだ幼かったロカちゃんに遊び感覚で摘ませていた。ロカちゃんは何を思ったのか――たぶん、そのバジルの葉の根元の茎の部分が、ちょうどコンセントの穴に合う太さだということに気がついたのだろう――2枚のバジルをコンセントに差し込んだのである。
 差したのが葉っぱでよかった、万が一電気を通す金属の何かだったら…と想像してヒヤリとしたのだが、コンセントから自然に生えたような葉っぱの佇まいがなんともアートっぽくて、胸をなでおろすと同時に笑ってしまった。他愛のない子どものいたずら、と言ってしまえばそれまでだが、「電気と植物」という意外な組み合わせも、見た目のビジュアルもインパクトがあったし、これがもしアーティストの作品として美術館に展示されていたら、ちょっとした文明批判のコンセプチュアルアートか?とまで、深読みしてしまいそうな出来映えだった。僕には、大人が知恵を絞って考えた現代美術作品も、それほどレベルが変わらないような気がして、アートに関わる者の一人として大いに苦笑してしまった。大人がこれをやったらあざといが、2歳の女の子が無心でやった行為だからこそ、余計にアート的に感じてしまう部分もあった。せっかくなので、記念に写真を撮っておいたのだが、どこかにいってしまって見当たらないのが残念である。
 幼い子どもは時折、大人を驚かせ、考え込ませるようなことをしてくれる。現在1歳4ヶ月の次女ゆゆちゃんも、このところ面白い行動をするようになってきた。先日のこと、ゆゆちゃんがリビングの壁の下側にある換気用の窓の前に立って、しばらく両手を動かしているので、何をしているのかな、と思ってよく見たら、窓に取り付けられた網戸をツメでカリカリ引っ掻いて、その音を楽しんでいた。両手の指先を上下に細かく動かして、網戸の音を奏でるゆゆちゃんは、まるで器用にピアノを弾いているかのようにも見えた。かなりの時間、夢中になってやっていたので、そんなに面白いのかな?と、僕も後で試してみたが、子どもと大人ではツメの大きさや厚さが違うせいか、ゆゆちゃんのような高い音がうまくでなかった。しかし、音だけでなく、網戸の上に指をすべらせる時の感覚が新鮮で、ハッとさせられるものがあり、ゆゆちゃんが楽しんでいた理由がわかった気がした。その後、彼女が網戸だけでなく、リビングで使っているガスファンヒーターの裏側の防塵用に取り付けられた金網でも、同じように音が出るのを発見して遊んでいるのを見て、その観察力にすっかり感心させられた。
 考えているうちに、僕の作品制作も、ゆゆちゃんとまったく同じプロセスをたどっていることに気がついた。新しい作品のアイデアは、日常生活の中の何気ない気づきからやってくることが多い。それをいかにつかまえて、面白さの理由を理解し、作品の中で再現できるようにするか。ゆゆちゃんの場合も、たぶん最初は、たまたま網戸にツメが当たって音が出たのだろうが、そのことを面白いと感じて、何度も繰り返しては面白さの追求をし、さらにファンヒーターの裏に似た質感の網を見つけて、同じ行為をちゃんと再現しているのだ。20年以上プロのアーティストをやってきた自分も、なんのことはない、たった1歳のゆゆちゃんと同じではないか。
 幼い娘たちがとったこれらの行動は、日常生活の中でいくつかの条件が偶然重なって生まれたもので、作品や表現と呼べるようなものではないかもしれない。たぶん本人でさえ、そのうち時間が経てば忘れてしまうくらいの他愛ない遊びの一つに違いない。しかし僕には、彼女たちの行為が、まさしく人の「発見し、創造する」ことの原点のように思えてならない。「三つ子の魂百まで」と言うけれど、僕ら大人が何かを作りたい、表現したい、と思う気持ちの根っこは、もっと前の、こんな幼児期の喜びからずっとつながっているのではないか。
 僕は、長年メディアアーティストとして、新しい自分だけの何かを創造することを職業とし、誇りに思ってきたけれど、それでも作ることをあえて仕事にしてしまったがために、相手のリクエストや締め切りに合わせ、世の中での位置づけや他人の評価をつい気にしてしまうようになってしまった。それに比べて、彼女たちは、誰かを驚かせたいとか、ほめて欲しいとかいった作為も欲もなく、誰からも教えられずに自分で遊びを発見し、純粋にその喜びに没頭している。そんな子どもたちを、大人になった僕はとてもまぶしく感じるのである。
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初出 scripta no.7 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2008-03-19 00:37 | ◆岩井パパのエッセイ
感覚のリセット― [6] 子どもの一年、大人の一年
もうまもなく、2007年も終わりです。
年末のこの時期は、時の流れの速さを特に感じますよねー
僕も、紀伊國屋書店発行のフリーマガジン「スクリプタ」に連載中のエッセイで、
自分が感じる時間の速さ、長さの不思議について考えたことを書いてみました。
お楽しみくださいー

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感覚のリセット― [6]

子どもの一年、大人の一年

岩井俊雄

f0118538_2263177.jpg 下の娘が1歳になった。成長が速く身体の大きな彼女は、もう赤ちゃんという雰囲気ではない。10ヶ月の終わりに歩き始めて、誕生日にはしっかりとした足取りで一升餅を背負って歩いてしまった。一緒に暮らしていると、日々の成長をそんなには実感しにくいのだが、体重3640グラム、身長50センチで生まれた彼女は、この一年で体重が約3倍の10キロを越え、身長は1.5倍の75センチに成長した。
 一方、7歳になる長女も、一年で7センチ背が伸びた。ついこの間まで踏み台を使ってキッチンの棚からお菓子を取っていたのに、今は、つま先立ちで手を伸ばせば届くようになってしまった。一年前には、まだひらがなを読むのもたどたどしかった彼女が、今では僕の本棚から手塚漫画を勝手に抜き出しては読み耽っている。
 彼女たちの身体の中では、どんなスピードで時間が流れているのだろう? すっかり重くなった二人の娘を、両手でなんとかギリギリ抱きかかえながら、そんなことを考えた。
 子どもたちの成長は、本当に速い。植物を見るようでもある。春に庭の草木が芽吹き、花が咲いたのをうっかりすると見逃してしまうように、彼女たちの成長を後になって気づき驚くこともしばしばである。一年という時間が、彼女たちにいかに充実した大きな変化をもたらしていることだろうか。それに比べて、我々大人にとっての一年は、あっという間である。正月を迎え、ああ新しい年が始まるなあ、と思っているうちに春になって、もう4分の1が過ぎたのか、と愕然とする。ぼやぼやしているとすぐに年末である。小さな子どもと一緒に暮らしているおかげで、今はかろうじて一年の中での様々な変化を実感できてはいるが、自分自身に流れる時間は相変わらず超高速で飛び去っていく。自分の少年時代を思い出してみると、一年はもっと長かった気がするのだがどうしてだろう? 子どもと大人に流れる時間がこうも違って感じられるのはなぜなのだろうか?
 同じ長さの時間が、使い方によって長くも短くも感じることはよくある。人に待たされた30分は永遠に長く感じ、親しい友人と楽しく談笑した30分はあっという間に過ぎていく。そうした体験の密度も関係しているとは思うが、大人になった自分が一年を短く感じる理由がそれですべて説明できるとは考えられない。大人の自分は確かに忙しい日々を過ごしているが、子ども時代が退屈だったわけではない。
 同じ「長さ」でも、「物の長さ」は、ものさしで計ればはっきりわかる。目で見れば、2つの物の長短は簡単に比較できる。それに対して時間を比べるのは難しい。時計やストップウォッチで計ることができるとは言っても、物の長さのように、時間は2つを並べて比較できない。触って大きさや重さを知ることもできない。ましてや他人と自分、子どもと大人が一年という時間をどう実感しているのかは比べようがないのではないか。
 そんな風に時間感覚について考えあぐねていたとき、古いアルバムを眺めていてはっと気づいたことがあった。それは昭和47年に実家で撮影されたお正月の家族写真だった。小学四年生だった僕を取り囲んで、母と三人の姉が並んでいる。家族の中で、その時僕は一番背が低かった。しかし、その後中学に入った頃から背はぐんぐん伸びて、あっという間に僕は家族で一番ののっぽになった。そのせいか、久しぶりにその写真を見てみたら、母や姉たちがまるで2メートル以上ある巨人だったかのような錯覚に陥った。そうか、物の長さだって絶対的なものじゃない、自分にとっては相対的で可変的なものなのだ、と気がついた。そういえば、何年か前に自分が通っていた小学校を訪ねた時、教室の机やイス、階段が異様に小さく感じた。結局、現在の自分の身体を基準にして、大きさや長さを感じていたのである。
 その時、ふと思った――時間の長さも、同じように現在の自分の身体を基準にして感じているのではないか。大人の自分は身体の物理的成長は止まってしまったが、時間はずっと自分の身体に蓄積され続けている。もしかしたら、我々はこれまでの人生で過ごしてきたトータルの時間数を尺度として、時間の長さを感じ取っているのではないか。
 1歳になったばかりの次女にとって、一年という時間は彼女の人生の100%である。7歳の長女にとって、一年は人生の7分の1。そして45歳になった僕に、同じ一年は人生の45分の1である。例えば、45歳の今の自分と比べて、9歳の時の自分には一年が5倍長く感じられたかもしれない――大雑把な計算ではあるが、意外と一年という時間の感覚的な長さを捉えるのに、この考え方はしっくりくるように思える。
 自分がこれまで生きてきたトータルの時間。それが自分が今を生きるうえでの時間の長さのものさしであるとしよう。それはどうあがこうと自分には変えられないし、今も刻一刻と自分の身体に時間は蓄積され続けている。一年という時間の長さは、感覚的にこの先もっともっと短くなっていくのかもしれない。では、そのものさしに、どれだけ細かい目盛りをつければ、子どもたちと同じように充実した一年を過ごせるだろうか? 僕はいま、そんな風に自分に流れる時間のことを捉えてみたい、と考えている。
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初出 scripta no.6 (紀伊國屋書店)

by iwaisanchi | 2007-12-29 02:09 | ◆岩井パパのエッセイ
父の友エッセイ―[3]
福音館書店から発行されているお母さん向けの月刊誌
『母の友』に短期連載したエッセイの第3回です。
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今回のテーマは「かるた」。
といっても、先日からご紹介しているわが家オリジナルの自作かるたではありません。
さて、どんなかるたでパパとロカちゃんは遊んでいるのでしょうか?
お楽しみください。

エッセイを読む
by iwaisanchi | 2007-02-16 09:04 | ◆岩井パパのエッセイ
父の友エッセイ―[2]
福音館書店から発行されているお母さん向けの月刊誌
『母の友』に短期連載したエッセイの第2回です。
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今回のテーマは「影絵遊び」。
『いわいさんちへようこそ!』の中でも少し紹介していますが、
わが家の影絵遊びが生まれたエピソードや、影絵について考えたことを書いてみました。

お楽しみください。

エッセイを読む
by iwaisanchi | 2007-01-15 23:35 | ◆岩井パパのエッセイ
感覚のリセット― [2]
紀伊國屋書店のフリーマガジン「スクリプタ」に連載中の
シリーズエッセイ『感覚のリセット』の第2回をおおくりします。
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今回は子どもの名前付けについて。
わが家の子どもたちの名前の秘密(?)について書いてみました。

お楽しみください。

エッセイを読む
by iwaisanchi | 2007-01-04 23:00 | ◆岩井パパのエッセイ


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